東京地方裁判所 平成6年(ワ)14538号 判決 1999年7月28日
原告(甲事件)
千代田生命保険相互会社
右代表者代表取締役
米山令士
右訴訟代理人弁護士
岸上茂
同
春田博
原告(乙事件)
第一生命保険相互会社
右代表者代表取締役
森田富治郎
右訴訟代理人弁護士
山近道宣
同
矢作健太郎
同
熊谷光喜
同
内田智
同
和田一雄
同
中尾正浩
被告(甲事件・乙事件)
甲野一郎
右訴訟代理人弁護士
広中惇一郎
同
鈴木淳二
同
喜田村洋一
同
渡辺務
同
加城千波
主文
一 被告は、原告千代田生命保険相互会社に対し、五〇〇〇万円及びこれに対する昭和五七年三月二五日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
二 被告は、原告第一生命保険相互会社に対し、三〇〇〇万円及びこれに対する昭和五七年三月一二日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
三 原告千代田生命保険相互会社のその余の請求及び原告第一生命保険相互会社のその余の請求をいずれも棄却する。
四 訴訟費用は、甲事件及び乙事件を通じて全て被告の負担とする。
五 本判決一・二項は、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一 請求
(甲事件)
被告は、原告千代田生命保険相互会社に対し、五〇〇三万〇〇〇四円及びこれに対する昭和五七年三月二五日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
(乙事件)
被告は、原告第一生命保険相互会社に対し、三〇〇二万〇四三七円及びこれに対する昭和五七年三月一二日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 争いのない事実等(証拠及び弁論の全趣旨により容易に認められる事実も含む。)
1(一) 原告らは、いずれも生命保険事業及び生命保険の再保険事業を行うことを目的とする相互会社である。
(二) 被告と甲野春子(旧姓乙川、以下「春子」という。)は、昭和五四年七月二六日に婚姻した夫婦であった。
(以上、甲イ一三、甲ロ一三、弁論の全趣旨)
2(一) 原告第一生命保険相互会社(以下「原告第一生命」という。)は、昭和五五年一月一日、被告との間で左記の内容の生命保険契約を締結した(以下「本件保険契約一」という。)。
保険証券番号
七九一二組〇七五四九九号
保険種類 定期保険
保険契約者 被告
被保険者 春子
死亡保険金受取人 被告
基本死亡(廃疾)保険金
一五〇〇万円
災害割増保険金 一五〇〇万円
(二) 原告千代田生命保険相互会社(以下「原告千代田生命」という。)は、昭和五六年二月一日、被告との間で左記の内容の生命保険契約を締結した(以下「本件保険契約二」という。「本件保険契約一」と「本件保険契約二」を併せて以下「本件保険契約」という。)。
保険証券番号
二〇六組三三九七二五番
保険種類 定期保険
保険契約者 被告
被保険者 春子
死亡保険金受取人 被告
基本死亡(廃疾)保険金
二五〇〇万円
災害死亡(廃疾)保険金
二五〇〇万円
(以上、争いのない事実、甲イ一、六の1、七、甲ロ一、二、六)
(なお、被告は、原告千代田生命と被告との間に本件保険契約二が締結されたこと(右(二)の事実)について、本件第一回口頭弁論期日において自白をしたが、その後本件第四回口頭弁論期日において右契約の契約者が被告でない旨の陳述をした。しかしながら、右自白が真実に反しかつ被告の錯誤によるものとは認められないので、信義則上右自白につきその撤回は認められない。)
3 春子は、昭和五六年一一月一八日、アメリカ合衆国ロサンゼルス市フェアモンド通り路上において何者かに銃撃され(以下「本件銃撃事件」という。)、外傷性脳内出血、外傷性頸動脈海綿静脈洞瘻により、いわゆる植物状態となり、本件保険契約の各約款に定める廃疾状態となった(争いのない事実)。
4(一) 被告は春子の代理人として、昭和五七年二月二二日、原告千代田生命に対して、本件保険契約二に基づき高度障害保険金(基本疾病保険金及び災害廃疾保険金)の支払を請求した。
原告千代田生命は、右請求に応じて、同年三月二四日、五〇〇三万〇〇〇四円(保険金五〇〇〇万円及び配当金三万〇〇〇四円)を被告名義の東海銀行原宿支店普通預金口座(口座番号×××―○○○)に振込送金して支払い、被告はこれを受領した。
(二) 被告は春子の代理人として、昭和五七年三月一一日、原告第一生命に対して、本件保険契約一に基づき高度障害保険金(基本廃疾保険金及び災害割増保険金)の支払を請求した。
原告第一生命は、右請求に応じて、右同日、三〇〇二万〇四三七円(保険金三〇〇〇万円及び配当金二万〇四三七円)を春子名義の東海銀行原宿支店普通預金口座(口座番号△△△―○○○)に振込送金して支払い、被告はこれを受領した。
(三) なお、本件保険契約の各約款上、高度障害保険金の受取人はいずれも被保険者自身とされていたが、当時、春子は植物状態であり保険金の支払請求をする能力がなかったため、いずれも被保険者の夫である被告が右請求手続を行った。
(以上、争いのない事実、甲イ八、九、甲ロ一一、弁論の全趣旨)
5 春子は、昭和五七年一一月三〇日、植物状態から回復することなく死亡した(争いのない事実)。
6 被告は、本件銃撃事件について被告が保険金を詐取する目的で人を使って春子を銃撃させたものであるとして昭和六三年一〇月二〇日に逮捕され、その後起訴されて、平成六年三月三一日に東京地方裁判所において殺人罪と詐欺罪で無期懲役の判決を受けたが、平成一〇年七月一日に控訴審の東京高等裁判所において無罪の判決を受けた。
現在、本件銃撃事件は検察官により上告され、上告審係属中である。
(以上、争いのない事実)
7(一) 他方、本件銃撃事件に先立ち、昭和五六年七月一〇日ころ以降、被告とその女友達であったM(以下「M」という。)は、保険金不正取得の目的で本件保険契約の被保険者である春子を殺害することを共謀し、同年八月一三日ころ、アメリカ合衆国ロサンゼルス市内のホテルにおいて、春子に対し、その後頭部をハンマー様の兇器で強打したが、全治約一週間の傷害を負わせるにとどまった(以下「本件殴打事件」という。)。
(二) 本件殴打事件については、被告は春子に対する殺人未遂被告事件で起訴され、左記のとおりの各判決及び決定を経て、右の事実関係及び被告に対する懲役六年の刑が確定した。
(1) 昭和六二年八月七日第一審判決(東京地方裁判所昭和六〇年合(わ)第二三九号)
(2) 平成六年六月二二日控訴審判決(東京高等裁判所昭和六二年(う)第一二七四号)
(3) 平成一〇年九月一六日上告審決定(最高裁判所平成六年(あ)第八〇二号) (4) 右(3)の決定に対する被告からの異議申立てに対する平成一〇年一〇月六日決定(最高裁判所平成一〇年(す)第二二五号)
(以上、争いのない事実、甲イ二ないし五)
8(一) 東京地方裁判所は、昭和六三年一一月一一日、原告第一生命の申立てにより、債権者を原告第一生命、債務者を被告、請求債権を本件保険契約一に基づいて支払った基本廃疾保険金及び災害割増保険金合計三〇〇〇万円の返還請求権の各内金として、次の三件の仮差押を命ずる決定をした(三件を併せて、以下「本件仮差押一」という。)。
(1) 第三債務者 株式会社東海銀行
請求債権 右内金四〇〇万円
仮差押債権 預金債権四〇〇万円
(2) 第三債務者 丸万証券株式会社
請求債権 右内金一三〇〇万円
仮差押債権 有価証券引渡請求権
(評価額一三〇〇万円にみつるまで)
(3) 第三債務者 日興證券株式会社
請求債権 右内金一三〇〇万円
仮差押債権 有価証券引渡請求権
(評価額一三〇〇万円にみつるまで)
(以上、甲ロ二六ないし二八の2)
(二) 東京地方裁判所は、昭和六三年一一月一二日、原告千代田生命の申立てにより、債権者を原告千代田生命、債務者を被告、請求債権を本件保険契約二に基づいて支払った基本廃疾保険金及び災害廃疾保険金合計五〇〇〇万円の返還請求権の各内金として、次の三件の仮差押を命ずる決定をした(三件を併せて、以下「本件仮差押二」という。「本件仮差押一」と「本件仮差押二」を併せて、以下「本件仮差押」という。)。
(1) 第三債務者 株式会社東海銀行
請求債権 右内金二〇〇万円
仮差押債権 預金債権二〇〇万円
(2) 第三債務者 丸万証券株式会社
請求債権 右内金二四〇〇万円
仮差押債権 有価証券引渡請求権
(評価額二四〇〇万円にみつるまで)
(3) 第三債務者 日興證券株式会社
請求債権 右内金二四〇〇万円
仮差押債権 有価証券引渡請求権
(評価額二四〇〇万円にみつるまで)
(以上、甲イ一八ないし二〇)
二 本件の訴訟物
本件において、生命保険会社である原告らは、原告らと被告の間で締結していた本件保険契約に基づき保険金の支払を受けていた被告に対し、本件銃撃事件は被告が春子を銃撃させたものであるから右事件が保険金の不払事由に当たるとして、若しくは、本件殴打事件は商法六五六条にいう「危険の著増」に当たるものであるから本件保険契約が本件殴打事件の時点で失効したとして、不当利得返還請求権に基づき、又は、右不払事由の存在若しくは右失効の事実にかかわらず、被告が原告らから保険金の支払を受けたものであるとして、詐欺の不法行為による損害賠償請求権に基づいて(以上は選択的な主張)、原告ら各自が被告に対して支払った保険金相当額及び各保険金支払日の翌日から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を請求した。
三 争点
1 本件銃撃事件は被告が人を使って春子を銃撃させたものか。
(原告らの主張)
本件保険契約一の定期保険普通保険約款一条及び災害割増特約約款五条並びに本件保険契約二の定期保険普通保険約款一三条及び災害割増特約約款一三条は、いずれも保険契約者の故意により保険事故が生じたときは廃疾保険金や災害廃疾保険金(高度傷害保険金)を支払わない旨規定している。
本件銃撃事件は被告が本件保険契約等の保険金の詐取を目的として人を使って春子を銃撃させたものである。
すなわち、春子の廃疾状態は被告の故意によりもたらされたものであって、原告らはそれぞれ支払義務のない保険金の支払をしたものであるから、原告らは被告に対して、それぞれが支払った保険金相当額を不当利得に基づいて返還請求する権利を有する。
また、原告らの被告に対する保険金の支払は、被告が保険金詐取の目的で人を使って春子を銃撃したものであることを原告らが知らずに支払ったものであり、すなわち、被告の欺罔行為による支払であるから、原告らは被告に対して、不法行為に基づき既払保険金相当額の損害賠償を請求する権利を有する。
(被告の主張)
原告らの右主張に対しては否認ないし争う。
本件銃撃事件について、被告は控訴審で無罪判決を受けている。
2 本件殴打事件により本件保険契約は失効したか―商法六五六条適用の可否
(原告らの主張)
本件殴打事件における被告の行為は保険金詐取の目的の殺人未遂罪にあたるものであって、公序良俗に反し、商法六八三条一項、同法六五六条の保険契約者の責に帰すべき事由による危険の著増に該当するものであるから、本件保険契約はいずれも本件殴打事件のころ右同条に基づき失効した。
原告らはいずれも、本件保険契約が効力を失っていることを知らずに、保険金を支払ったものであり、原告らは被告に対して、それぞれが支払った保険金相当額を不当利得に基づいて返還請求する権利を有する。
また、被告の保険金請求は、本件保険契約が失効しているにもかかわらず、それを秘して行われたものであり、原告らの被告に対する保険金の支払は、被告の欺罔行為による支払であるから、原告らは被告に対して、不法行為に基づき既払保険金相当額の損害賠償を請求する権利を有する。
(被告の主張)
いわゆる「危険の著増」による保険契約の失効を定める商法六五六条の要件及び効果は、告知義務違反による契約の解除を定める商法六七八条や保険者の免責事由を定める商法六八〇条等の規定と比べて、保険契約者に著しく不利益なものである。
そして、商法六五六条は、保険契約者の背信性をその根拠とする保険契約における一般条項というべきものであり、同条の延長線上に故意事故招致による保険者免責を定める商法六四一条が存在するものであること等に照らせば、その適用においては、保険契約者側の背信性が強度であり、保険契約者側に著しく信義則に反する客観的事情が認められ、かつ、保険事故の事由と危険著増の事由とが同一か若しくは極めて密接に関連する事由の場合に限定されるべきである。
仮に、商法六五六条が慎重かつ限定的に適用されないとすると、保険者は遡って保険事故事由と無縁の危険著増事由までをも詮索、指摘する事態を招き、そうした場合にはかえって商法六五六条の趣旨たる保険契約における信義誠実の原則に反する結果となるばかりでなく、保険制度そのものの基盤が損なわれることになりかねない。例えば、確かに過去に危険著増事由が生じていたことは事実であったとしても、保険事故発生時には右危険著増事由が消滅、不存在の状態となっていたような場合に、保険会社が右危険著増事由の存在を指摘して保険金の支払を拒否することができるとするならば、保険制度の存在自体無意味となってしまうことは明らかである。
本件において被告が保険金の支払を得た事由、すなわち保険事故の事由は、本件銃撃事件による春子の死亡(廃疾状態)である。これに対して、原告らが右保険金の返還を求める根拠として述べている危険著増の事由は、本件殴打事件である。いうまでもなく、本件銃撃事件と本件殴打事件は別個の事実である。原告らが危険著増事由と主張する本件殴打事件によって確かに被告の有罪が確定したが、保険事故事由である本件銃撃事件について被告は無罪であり、春子は何者かによる銃撃事故によって死亡したものである。
したがって、本件では商法六五六条は適用されるべきではない。
3 消滅時効の成否
(被告の主張)
原告らが被告に保険金を支払ったのは、昭和五七年三月一一日ないし同月二四日である。
また、被告が本件殴打事件により逮捕されたのは昭和六〇年九月一一日であり、同事件の一審判決(有罪)が言い渡されたのは昭和六二年八月七日である。そして、本件銃撃事件により被告が逮捕されたのは昭和六三年一〇月二〇日である。
いずれにしても、原告らは、昭和六〇年九月一一日の時点では危険の著増に関する事由を認識していたものである。
他方、不法行為ないし故意免責を理由として原告らが本件訴訟を提起したのは、いずれも平成六年七月二一日であり、危険の著増を理由とする不当利得ないし不法行為を原因としての請求は平成一一年三月八日に初めてなされたものである。
したがって、仮に原告らの主張している不当利得返還請求権が存在するとしても、商事債権の時効期間である五年を既に経過しているし、仮に原告らの主張する不法行為に基づく損害賠償請求権が存在するとしても、消滅時効期間の三年を既に経過しており、すなわち、原告ら主張の債権はいずれも既に時効消滅している。
そこで、被告は右時効を援用する。
(原告らの主張)
(一) 本件における不当利得返還請求権の消滅時効期間は五年ではなくて、一〇年であるところ、本件仮差押の決定は、いずれも保険金支払時から一〇年以内になされている。
したがって、原告らの被告に対する不当利得返還請求権の消滅時効の進行はいずれも中断している。
(二) 不法行為に基づく損害賠償請求権の除斥期間は、不法行為の時から二〇年であるから、未だ右期間は経過していない。
不法行為に基づく損害賠償請求権の三年の消滅時効期間の起算点は、損害及び加害者を知ったときであるが、原告らが被告による本件殴打事件を真実と知ったのは同事件の一審有罪判決が下された昭和六二年八月七日以降のことであり、その翌年には本件仮差押の決定がなされているのであって、本件においては不法行為に基づく損害賠償請求権の三年の消滅時効の進行もまた中断している。
第三 当裁判所の判断
一 本件において原告らは本件銃撃事件に基づく請求と本件殴打事件に基づく請求とで請求原因を選択的に主張しているが(更に、その中でそれぞれ不法行為に基づく損害賠償請求と不当利得返還請求を選択的に主張している。)、以下においては、本件銃撃事件に基づく請求についての判断は措き、まず本件殴打事件に基づく請求について判断する。
二 争点2(本件殴打事件により本件保険契約は失効したか―商法六五六条適用の可否)について
1 前記争いのない事実等に加えて、証拠(甲イ二ないし五)によれば、本件殴打事件に関して、以下の事実が認められる。
(一) 被告は、昭和五三年二月、日用雑貨の輸出入及び販売等を営業目的とする株式会社フルハム・ロード(以下「フルハム・ロード」という。)を設立し、以降同社の代表取締役としてその経営に当たり、度々、商品買付等のために、アメリカ合衆国等海外へ主張していた。
被告は、昭和五四年七月二六日、春子と婚姻した。
被告は、昭和五五年一月一日、原告第一生命との間で、春子を被保険者、被告を保険金受取人として、災害死亡時合計三〇〇〇万円の本件保険契約一を締結し、昭和五六年二月一日、原告千代田生命との間で、春子を被保険者、被告を保険金受取人として、災害死亡時合計五〇〇〇万円の本件保険契約二を締結した。
被告は、同年七月一〇日頃、かねてから、妻春子の目を盗んで肉体関係を続けながら、私生活上の相談にも乗るなどして交際していたMに対し、「妻がフルハム・ロードと競争関係にある会社の社長と浮気をし、フルハム・ロードの情報をその会社に流してしまうので困っている。妻は、可愛い子供をベビーシッターに預けて遊び歩き、子供の面倒を全く見ない。また、フルハム・ロードの従業員に対して社長夫人ぶった態度を示すので従業員の手前恥ずかしい。妻に愛情なんかない。ひどく妻を憎んでいる。もし、妻を殺してくれるなら妻にかけてある死亡保険金の半分をやる。もし、承諾してくれたら僕と君は一生つながって行ける。絶対にばれない計画を立てるから心配はいらない。」等と春子の殺害を持ちかけ、Mはその翌日これを承諾した。
被告は、その後同年八月六日ころまでの間、数回にわたってMと会い、Mに対して、「成功したら保険金三〇〇〇万円のうち一五〇〇万円を君にやる。君は旅行会社が主催する八月一〇日出発のパッケージツアーに参加してロサンゼルスに行ってくれ。僕は春子を連れてロサンゼルスに行き、君と同じホテルに泊まる。決行日は一三日とする。僕はあらかじめフルハム・ロードの駐在員との商談をその日に設定しておいて部屋を出る。春子には、中国服の仮り縫いのための採寸に中国人の女性がホテルの部屋に訪ねてくると話しておくから、君は僕が春子をホテルの客室に一人残して他所で商談している間に、採寸に来た女性を装って客室に入り、春子がドアを閉めて部屋の奥に向かって歩き出すなどした際に、その隙を見てその背後から金属製ハンマー様器具で春子の頭部を強打して殺せ。右ハンマー様器具は僕が先の渡米の際アメリカで見付けたので、ロサンゼルスに行ってから事前に君に渡す。春子を殺したら、部屋においてあるハンドバッグやカバンから現金や貴重品を取って、あとは部屋中にばらまき、春子が身に付けているネックレス類も持ち出して、あたかも強盗に襲われたかのように見せかけろ。」等と具体的な殺害計画を示して、春子殺害のための具体的な手順や事後工作等について謀議を重ねた。
被告は、同月五日、本件保険契約の保険金に加えて更に高額の保険金を春子殺害後に併せ取得する意図の下に、アメリカン・ホーム・アシュアランスカンパニーとの間に、春子を被保険者とし、保険期間を同月一二日から一〇日間、傷害死亡時保険金額を七五〇〇万円とする海外旅行傷害保険契約を締結した。
被告は、同月一〇日、Mをアメリカ合衆国に渡航させ、自身は、同月一二日、春子と共にアメリカ合衆国に渡航し、同国カリフォルニア州ロサンゼルス市内のザ・ニュー・オータニ・ホテル・アンド・ガーデンの二〇一二号室に投宿した。
被告は、翌一三日午前一〇時(アメリカ合衆国太平洋標準時、以下同じ)ころ、同ホテル一四二六号室に滞在していたMを同室に訪ね、Mに対し、春子殺害の決行時刻を指定し、春子がいる客室の番号、同客室への道順、春子の容姿、服装等を教え、持参したショルダーバッグの中から重さ1.5キログラムの、円柱型の金属をT字型に組み合わせたハンマー様の器具を取り出し、これを兇器にするように申し向けて手渡し、更に、同日午後六時ころ、前記一四二六号室にいるMに電話をかけ、これから春子を殺害に向かうように改めて指示をした。
Mは、被告からの右電話を受けて、前記二〇一二号室に赴き、中国服の採寸にきた女性を装ってドアをノックした。そして、春子が何ら不審を抱かずにMを同室に招き入れ、客室の奥に向かって歩き出し、その後ろ姿を見せたところ、Mは、持参してきたハンマー様器具を左肩に掛けた袋から右手でその柄の部分を掴んで取り出し、殺意を持って、春子の背後から右器具でその後頭部を力一杯殴打した。しかしながら、Mは、不安定な体勢のまま殴打したため、手元が狂い、春子に対して一撃で昏倒させ制圧するだけの打撃を与えることができなかった。逆にMは、春子に反撃されてもみあいの末、右ハンマー様の器具を春子に取り上げられてしまった。
春子はMの右殴打により、全治まで約一週間を要する後頭部挫裂創の傷害を負った。
(二) 本件殴打事件について、被告は殺人未遂で起訴され、平成一〇年一〇月六日、同罪により懲役六年の刑が確定した。
2(一) ところで、商法六五六条は、保険契約の成立後、契約締結当時に確定されていた危険が著しく増加し、そのことにつき保険契約者又は被保険者に帰責事由があるときは、保険契約はその効力を失う旨定め、損害保険に関する同条は、商法六八三条一項により本件保険契約のような生命保険に準用されているところ、商法六五六条にいう危険の著しい増加とは、その事実が契約締結当時に存在したならば、保険者が保険契約を締結しなかったか、又は、約定保険料よりも高額の保険料を保険契約者が承諾した場合にのみ保険契約を締結したであろう程度に大幅に危険が増加する場合をいうものと解される。
(二) これを本件についてみるに、被告は、死亡保険金の受取を目的として、本件保険契約をはじめとする保険契約の被保険者となっている春子の殺害を計画し、Mと共謀した上で、Mにおいて春子に対する前記のような殺人未遂にかかる殴打行為を実行させたのであるから、仮に、本件殴打事件の如き事件が本件保険契約締結当時に既に発生していて、更にその事実が一般に知るところとなっていれば、原告ら保険者が被告との間で春子を被保険者とする保険契約を締結しなかったであろうことは明らかなのであって、少なくとも被告の計画にかかる右殴打行為が実行に移された時点においては、春子の保険事故発生の危険は大幅に増加したものということができる。また、本件殴打事件が被告の故意によるものであって、すなわち右危険の増加には本件保険契約の契約者である被告においてその帰責事由があることも論を侯たない。
したがって、本件保険契約はいずれも、その保険金支払時においては、商法六八三条一項、同法六五六条により既に失効していたものと認めるのが相当である。
(三) この点被告は、商法六五六条は、保険契約者側の背信性が強度であり、保険契約者側に著しく信義則に反する客観的事情が認められ、かつ、保険事故の事由と危険著増の事由とが同一か若しくは極めて密接に関連する事由の場合に限定して適用されるべき旨主張するが、そもそも商法六五六条による保険契約の失効はその規定上後から実際に保険事故が発生することを条件としているものでもないから、一般的にいって、同条により保険契約が失効するためには、危険の著しい増加の原因となった事由がその後に生じた保険事故の事由と極めて密接に関連していなければならないなどといえるはずもないし、保険契約者が死亡保険金の受取を目的として、被保険者の殺害を計画して実行することなど、保険契約者における背信的行為の最たるものというべきであって、本件においては、商法六五六条の適用を控えるべき特別の理由は何ら見当たらない。したがって、被告の右主張は理由がない。
三 争点3(消滅時効の成否)について
ここでは、本件の不当利得返還請求権についての消滅時効の成否を検討する。
この点、被告は、本件において原告らが主張する保険金の返還を求める不当利得返還請求権は、保険金支払時から本訴提起に至るまでの間に商事時効期間五年が経過したため、既に時効消滅した等と主張する。
被告の右主張は本件の不当利得返還請求権の時効期間が商事債権の時効期間の五年であることを前提とするものであるが、一般に商法五二二条の適用又は類推適用されるべき債権は商行為から生じたもの又はこれに準ずるものでなければならないところ、本件の不当利得返還請求権は保険契約について法定の失効事由があるため支払原因が失われたことによって生じた債権、すなわち法律の規定によって発生した債権に過ぎず、商行為から生じた債権に準ずるものということはできないというべきである。したがって、本件の不当利得返還請求権の消滅時効期間は、民事上の一般債権として民法一六七条一項により一〇年と解するのが相当である。
そして、原告らにより本件の保険金返還請求権を請求債権とする本件仮差押があったのは、それぞれ昭和六三年一一月一一日(原告第一生命による本件仮差押一)ないし同月一二日(原告千代田生命による本件仮差押二)のことであり、それが本件の保険金支払日である昭和五七年三月一一日(原告第一生命による本件保険契約一に基づく支払)ないし同月二四日(原告千代田生命による本件保険契約二に基づく支払)から起算していずれも一〇年の時効期間内であることは明らかである。
したがって、本件の不当利得返還請求権の消滅時効の進行はいずれも中断しているものと認められる(なお、弁論の全趣旨によれば、いずれも第三債務者を日興證券株式会社とする本件仮差押一のうち前記第二、一8(一)(3)の仮差押と、本件仮差押二のうち前記第二、一8(二)(3)の仮差押は、その後間もなく取り下げられたことが認められる。しかしながら、右取り下げの理由がいずれも仮差押債権の不存在にあること、取り下げられた仮差押以外の本件仮差押は全てその効力が継続中であること(弁論の全趣旨)、本件仮差押はいずれも請求債権の全部の保全を目的として三件ずつがそれぞれ同時に発令されたものであることに照らせば、原告らがいずれも現在効力が継続している本件仮差押において保険金返還請求権の権利の全部を主張しているものであることは明らかであり、そうであれば、本件仮差押により本件の不当利得返還請求権の債権全体についてその時効が中断しているものと解するのが相当である。)。
四 以上の次第で、原告千代田生命は、法律上の原因なくして被告に対して保険金五〇〇〇万円を支払ったものであるから、被告に対して右同額の不当利得返還請求権を有し、原告第一生命は、法律上の原因なくして被告に対し保険金三〇〇〇万円を支払ったものであるから、被告に対して右同額の不当利得返還請求権を有するところ、被告は原告らに対してそれぞれ右各保険金の金員及び各保険金支払日の翌日から支払済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払義務を負う。
ところで、本件保険契約が商法六五六条により失効した時期は本件殴打事件において被告の計画にかかる殴打行為が実行されたころと解されるところ、一般に右規定により保険契約が契約締結時に遡って失効するものとは解されないから、本件における被告の本件保険契約の配当金の受領についてもその全てにつき不当利得が成立するものとは認められない。そして、本件においては、本件保険契約が失効してからの配当金増加分の金額についてその立証がないことから、原告らの請求金額のうちの配当金部分全てについて不当利得返還請求は認められないというべきである。
したがって、原告らの請求は、その余の訴訟物について判断するまでもなく、主文一・二項の限度で理由があるのでこれを認容することとし、その余は理由がないからこれを棄却することとし(なお、本件全証拠によっても本件保険契約締結当初から被告が保険金を詐取する目的を有していた等の事実を認めるに足りないことから、本件のその他の訴訟物について判断しても、配当金相当分については原告らの請求を認めることはできない。)、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官梶村太市 裁判官平田直人 裁判官大寄久)